6 御霊神社紙本墨書明智光秀関係文書(市指定、古文書6)

 福知山市字中ノ238    一巻二通

 市街地の中心に位置する御霊神社は、明智光秀の霊が合祀してあるが、もとは稲荷社であった。社記によると、元々光秀の霊は稲荷社とは別に菱屋町の常照寺境内にまつられていた。かつての光秀の善政に報い、水害など度重なる災害を光秀の霊が浮かばれぬ故であろうと、その霊を慰めるために宝永二年(1705)に勧請(かんじょう)したものであるという。

 以上の由緒から当社には、明智光秀にかかわる三通の古文書が残されている。なお、『福知山市史.史料編一』に収録している。

 明智光秀家中軍法 一巻 縦32.1p.122.7p

天正九年(1581)六月二日付 本紙三枚継

十七条にわたってまとめられた、光秀の家中軍法。高柳光寿氏の著『明智光秀』に、「この軍法は光秀の軍隊の構成を知り得るばかりではなく、当時における信長配下の諸将の軍隊の構成をも推測し得られる資料である」と紹介されている。

 明智光秀書状 一通 縦23.6p 横41.2p

 天正六年(1578)十二月二十一日付 奥村源内あて

 軸装にした折紙で、もと何鹿郡(いかるがぐん)以久田字栗(現綾部市)で得たものと伝えられる。多紀郡八上城包囲の陣中からのものと考えられる。文の意味は奥村源内にあてて音信を謝し、有岡方面のことが望みどおりになったことを祝い、かつ自らも有馬郡に出動し三田の付城を処理し、丹波多紀に着いた。いずれ此地方からもわが意の如くなるだろうと書いている。

明智光秀書状 一通 縦26.8p 横42.6p   

     六月二十一日付 出野左衛門助・片山兵内あて

 天正八年(1580)に光秀が丹波の和久庄の和久左衛門が築いた山田城を攻略した後、その処分について配下のものに指示した消息で折紙にしたためてある。書状にある和久左衛門大夫は、戦国末期に天田郡一円を支配した塩見大膳頼勝の四男長利で、和久庄山田城(茶臼山)に拠り和久氏を称した。永禄年中何鹿郡に攻め入り、山家・和知・口上林を領したという。その動向について確証の乏しい塩見・横山一族の中で、信憑性の高い史料に氏名の見える唯一の人物である。

明智光秀家中軍法
明智光秀書状
明智光秀書状