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観光・文化施設

芦田均記念館
芦田均記念館
住所京都府 福知山市 字宮(野間仁田)36
電話番号0773-27-9445

故芦田均氏(福知山市名誉市民)は、明治20(1887)年福知山に生まれ、昭和23年3月第47代内閣総理大臣に就任、戦後の混乱の時代に国政を担われ、日本の復興に大きな功績を残されました。

 記念館は、生家に開館したもので、のどかな田園風景のなか、白壁の建物が遠くからも目印となっています。記念館内では芦田均元首相の映像資料を上映しているほか、外交官時代のパスポートや著書、写真などの資料を展示しています。 
 また、文化活動の場として使用していただける音響設備を備えた多目的ホールや生家(和室)の一部を有料で利用することができます。
 このほか、記念館玄関横には、全国の有志で建立した芦田均元首相の胸像(平成19年3月 市内御霊公園より移設)があります。

開館時間
午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで) 
休館日
毎週火曜日(祝日の場合は翌日)
12月27日~翌年1月4日 
入館料
無料(施設利用は一部有料) 

多目的ホール・和室の使用申込方法
●受付時間/午前9時~午後4時30分(休館日は除く)

●使用区分
・午前 9時~正午
・午後 正午~午後5時

●使用料
・多目的ホール/午前1000円、午後1500円
・和室/午前500円、午後700円
※土・日曜日、休日の使用については1割を加算します。
※使用料は前納です。納付後、使用を取り消された場合は、使用料はお返しできません。

●申込方法
 所定の申込書に記入して手続きを行ってください。手続き後、納付書を発行します。

 

552.jpg第47代内閣総理大臣 芦田均(1887-1959)

 1948(昭和23)年3月10日 芦田均は、第47代の内閣総理大臣となりました。
第二次世界大戦前の反戦活動、日本国憲法制定など自由と平和と正義を掲げて民主国家実現のために大きな足跡を残されました。


 1887(明治20)年11月15日、芦田均は京都府天田郡中六人部村(現福知山市)の村長、鹿之助、しげの間に6人兄弟の第5子(次男)として生まれました。
 少年時代の芦田は、評判のガキ大将でしたが、将来は外交官となり、日本の近代化に向けて活躍する夢を抱いていました。
 16歳で単身上京し、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部仏法科に進みます。青年時代には谷崎潤一郎や和辻哲郎らと親交を深め文学に傾注したこともありました。

 1912(大正元)年、外務省に入省。夢であった外交官となり、1914(大正3)年ロシア帝国の首都ペテルブルグへ赴任しました。ロシア大使館時代には、ロシア革命(社会主義革命)を目の当たりにすることとなります。


 

553.jpg 1918(大正7)年、生涯の伴侶となる長谷寿美と結婚し、フランス大使館(パリ)に赴任しました。
以後、1932(昭和7)年まで、本国勤務を経てトルコ大使館、ベルギー大使館に勤務しています。
その間、ロシア革命や第一次世界大戦など激変する国際情勢を日本に伝えるとともに、国際法の研究を深め法学博士の学位を受けています。


555.jpg 当時の日本は、近代国家へ脱皮するために富国強兵策をとり大陸へ進出し、欧米諸国と対立を深めつつありました。そして、1931年(昭和6)満州事変が勃発し、日本は戦争への道を突き進むこととなります。

 芦田は、欧州から孤立する日本の将来を憂い、政治家となって自ら立ち上がることを決意しました。
1932(昭和7)年1月、外交官を辞職し、衆議院選挙に出馬。当選を果たし衆議院議員となった芦田は、国際社会の中で孤立を深め、戦争の泥沼へ進み行く日本を何とか押しとどめようと、帝国議会を舞台に反戦活動を繰り広げます。

しかし、軍部の独走により政党解散など思想統制が行われ、戦争の遂行に向け挙国一致の体制がつくられました。
 1942(昭和17)年4月、第21回衆議院総選挙(翼賛選挙)は、反戦活動を行っていた芦田にとって非常に不利な戦いでしたが、見事当選しています。

 1945(昭和20)年8月、米軍は沖縄へ上陸、広島・長崎へ原爆を投下。ついに我が国はポツダム宣言を受諾し15年の長きにわたる戦争状態に終止符が打たれました。
芦田は、国際感覚のある自由主義者として内外に知られており、日本の新たな枠組みを決定する重要な役割を果たすものとして期待されていました。

 1945(昭和20)年10月、幣原喜重郎内閣が組閣され、芦田は厚生大臣として入閣することとなります。

554.jpg 新しい日本の将来像を示すために、終戦直後から、さまざまな立場で憲法改正の必要性が論じられていました。
 1946(昭和21)年5月、自由党吉田茂内閣のもと、本格的に憲法改正が進められることとなりました。
 6月20日、憲法改正案が議会に提出され、6月25日には72名の委員から成る帝国憲法改正案委員会が設けられ、芦田は委員長に選出されました。
 8月24日、60日余りの審議を経て衆議院本会議で芦田の憲法改正案についての1時間半に及ぶ委員長報告が行われ、採決の結果、憲法改正案は可決されました。
翌年5月3日、国民主権を唱え不戦条項を掲げた日本国憲法が施行されることとなりました。

 リベラリストとして、一党一派に偏らず私欲を廃した姿勢に対する内外からの評価は高く、新憲法をまとめ上げた芦田に対する期待は大きくなりました。
 1947(昭和22)年3月に、民主党を結成し、5月には総裁に就任します。6月1日、社会党・民主党・国民協同党の連立で片山哲(社会党)内閣が組閣され副首相兼外相に就任。芦田は、政界の中心で、戦後の日本の舵取りに大きくかかわるようになりました。


556.jpg 1948(昭和23)年2月10日、片山内閣は、社会党内部の争いから、総辞職することとなりました。
幣原、吉田、片山 短期間のうちに政権が交代し、政治も社会も新たな時代に向けて大きく揺れ動いていました。
次の首班指名に向けて各政党の主張はかみ合わず、自由党単独と民主・社会・国民協同三党連立の対決となりました。

 2月21日、衆議院首班指名選挙の結果、芦田216票、自由党吉田茂180票、芦田が総理に指名されました。
 3月10日、第47代内閣総理大臣に就任、戦後の混乱の時代に国政を担当し、国家行政組織案、建設省設置法案、教育委員会法案、地方財政法案、治安関連法案など重要な法案を多数成立させるなど、日本の復旧に向けて尽力することとなります。

 しかし、同年10月7日、昭電疑獄事件に巻き込まれ、芦田内閣は総辞職することとなりました。その後も、昭電疑惑の中、自らの潔白を信じ、政界の中心の一人として、国防問題や外交問題を中心に遊説や講演活動など精力的な活動を続けることとなります。

 衆議院議員となって27年間、終生第一線で活躍され、戦後日本の復興に大きな功績を残されました。


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