日本・世界の鬼のことがわかる!京都府福知山市大江町に佇む鬼の博物館

〒620-0321
京都府福知山市
大江町仏性寺909
TEL.0773-56-1996
FAX.0773-56-1996




酒呑童子伝説 / 日子坐王の鬼退治 / 麻呂子親王の鬼退治
●伝説の紹介

頼光たちに切られる酒呑童子


老翁より神便鬼毒酒を授かる頼光たち


着物を洗う姫君たちに出会った頼光たち


都へ運ばれる酒呑童子の首
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 時は平安朝、一条天皇の頃。西暦1000年前後、京の都は栄えていましたが、それはほんの一握りの摂関貴族たちの繁栄であり、世の中は乱れに乱れ民衆は社会不安におののいていました。そんな世の中で、酒呑童子は王権に叛き、京の都から姫君たちを次々にさらっていたのです。
 姫君たちを奪い返し酒呑童子を退治するため大江山へ差し向けられたのが、源頼光(みなものとのよりみつ)を頭に藤原保昌(ふじわらのやすまさ)並びに四天王の面々、坂田公時(さかたのきんとき)、渡辺綱(わたなべのつな)、ト部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)ら6名です。
 頼光ら一行は山伏姿に身をやつし、道中、翁に化けた住吉・八幡・熊野の神々から「神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)」を与えられて道案内をしてもらい、途中、川のほとりで血のついた着物を洗う姫君に出会います。一行は、姫君より鬼の住処を詳しく聞き、酒呑童子の屋敷にたどり着きました。
 酒呑童子は頼光一行を血の酒と人肉で手厚く歓待しますが、頼光たちは例の酒を童子と手下の鬼たちに飲ませて酔い潰し、童子を返り討ち、手下の鬼共も討ち果たします。捕らえられている姫君たちを救い出し、頼光たち一行は都へ上がりました。
 討ち取られた酒呑童子の首は、王権に叛いたものの見せしめとして川原にさらすため、都に持ち帰られますが、途中、丹波、山城の国境にある老の坂で急に重くなって持ち上がらなくなり、そこで葬られたといわれています。
(挿図写真は日本の鬼の交流博物館蔵「酒典童子絵巻」より)

●酒呑童子物語の成立
 酒呑童子が描かれた最古の作品は「香取本大江山絵詞」(逸翁美術館所蔵・国宝)で、南北朝時代(14世紀)の作です。つづいて室町時代に入ると、謡曲「大江山」があらわれます。謡曲「大江山」では、酒呑童子がシテ(主役)であり頼光はワキ(脇役)となっています。酒呑童子が多くの人々に知られ、有名になったのは江戸初期の「御伽草子」が刊行されてからで、その後、読本や黄表紙、それに、浄瑠璃や歌舞伎の題材となり広まっていきます。明治になると(昭和の前期まで)酒呑童子は小学校の国語の教科書に登場し、小学唱歌でもうたわれ、丹波の大江山は鬼の山として有名になっていきました。

●酒呑童子の出生伝説
 酒呑童子伝説の多くは大江山伝説の形をとっていますが、酒呑童子の出生とかかわる伝説を残し、それを物語化したり絵巻としているところは他にもみられます。
 「御伽草子」では酒呑童子の出生地を越後とし、新潟県(越後国)には、酒呑童子出生にまつわる伝説がかなり残っています。中でも弥彦山系の国上山にある国上寺(燕市分水町)には、「大江山酒呑童子」絵巻と共にその寺の縁起が残され、酒呑童子の生い立ちが、くわしく記されています。
 それによると桓武天皇の皇子桃園親王が、流罪となってこの地へきたとき、従者としてやってきた砂子塚の城主石瀬俊綱が妻と共にこの地にきて、子がなかったので信濃戸隠山に参拝祈願したところ懐妊し、三年間母の胎内にあってようやく生まれました。幼名は外道丸。手のつけられない乱暴者だったので、国上寺へ稚児としてあずけられます。外道丸は美貌の持ち主で、それゆえに多くの女性たちに恋慕されました。そうしたうちに外道丸に恋した娘たちが、次々と死ぬという噂が立ちます。外道丸がこれまでにもらった恋文を焼きすてようとしたところ、煙が立ちこめ煙にまかれ気を失います。しばらくして気のついたとき、外道丸の姿はみるも無惨な鬼に変わっていました。外道丸は身をおどらせ戸隠山の方へ姿をけしたのち、丹波の大江山に移りすんだといわれています。
 もう一つの酒呑童子出生地についての異説は、近江国(滋賀県)伊吹山、井口とする説であり、奈良絵本(酒呑童子)に描かれています。
 嵯峨天皇(809−823)のとき比叡山廷暦寺に、酒呑童子という不思議な術を心得た稚児がいました。人々が怪しんで素性を調べたところ、井口の住人須川殿という長者の娘王姫の子であり、伊吹山の山の神=伊吹大明神の申し子であったというもので、3才のころから酒を飲んだので酒呑童子と名付け、10才のとき比叡山の伝教大師のもとへ稚児として弟子入りします。
 帝が新しい内裏に移ったお祝いの祭日の日、「鬼踊り」をしようということで三千人の僧の鬼の面をつくり、とくに精魂こめて作った自分用のお面をつけ京の都へくり出し、大変な人気でありました。
 山に戻って、大宴会ののち、酔いがさめ鬼面をとろうとしましたが、肉にくいついてとれません。伝教大師は、酒呑童子を山から追い出し国に戻しますが、肉親からも見すてられ、山々を転々とし、ついに大江山にいたったというものです。

 この2つの出生譚、前者は申し子説、後者は異類婚姻説の違いはありますが、あらぶる性格の強い山の神の精をうけた異常な男の子として生をうけ、酒を好み乱暴し、美貌ゆえに人をまどわし、ついに人間の世界から逸脱して鬼となり、大江山に住み着くという共通点をもっています。





酒呑童子
●茨木童子の紹介
 茨木童子は酒呑童子に率いられ大江山にたてこもった鬼の集団の副将格として、大江町と福知山市の境にある、鬼ヶ城(544m)を砦としていたと伝えられています。江戸中期の代表的な地誌書『丹哥府志』には、「ここ鬼が城に鬼の岩窟あり、口の広さ五尺ばかり、縦七尺、昔茨木童子というものここに住居す、けだし大江山酒呑童子の一類なりという」とあります。
 しかし、茨木童子が全国的に著名なのは、むしろ羅生門の鬼としてです。平安京一条戻橋で、女の姿に身をかくし、渡辺綱とわたりあい、腕を切り落とされますが、綱の伯母にばけ、その腕をとりかえす話です。
 なお、御伽草子の「酒呑童子」によれば、茨木童子は酒呑童子が討たれたあと、自ら茨木童子と名乗り、「主を討つ奴ばらに手並みのほど見せん」と渡辺綱を相手に大活躍しています。
 なお、茨木童子の出生地については三説があり、それぞれ次のような伝承が残っています。
一、大阪府茨木市
 茨木童子は水尾村に生まれましたが、幼児期、茨木村にすてられ、近くの床屋に育てられました。床屋の手伝いをしているうちに、客の切り傷の血をなめ、その味を知ってから血をなめる習癖がつき、自分の異常に気づいた彼は、前の小川にかかる橋の上から、水にうつる自分の顔を見ました。それがものすごい鬼の形相であることを知り、人間世界での生活をあきらめ、大江山の酒呑童子の配下となりました。茨木市新庄町には茨木童子の貌見橋という小橋があるといいます。また大正初年まで茨木童子が残した床屋の櫛を、たたりをおそれて埋めた櫛塚もあったといわれています。(茨木市史)

二、尼崎市東富松
 東富松のある百姓に男の子が生まれました。生まれなりに歯がはえ、髪も長く成人のようでありました。一族のものは恐ろしく思い、茨木村に捨てます。捨てられた子は、酒呑童子にひろわれ配下となりました。
 あるとき父母が病気であることを聞き、茨木童子は父母を見舞います。父母は童子をねぎらいましたが、一族のものたちはみるからに恐ろしい姿をみて、恐れおののいたので、童子は「私はいま洛陽の東寺の門にすんでいる。再び会うこともないでしょう。これでお別れです」と、父母に別れをつげました。父母たちは、東寺にすんでいるのなら東寺に安住できるようにと願い、童子の生まれた土地を安東寺と名づけたといわれています。(尼崎市史)

三、新潟県栃尾市
 蒲原郡の旧家、荒木善次右衛門の家に生まれ、幼時より悪行を好み、村民にうとまれ恐れられ邸内の窟をすみかとしていました。長じてのち酒呑童子と共に、古志郡太平山をすみかとして近辺を横行します。酒呑童子と茨木童子は、力量に優劣はなかったのですが、酒呑童子は奇術に長けていたので、茨木童子は酒呑童子に主従の約をとりました。そして、国土の横領をはかり信濃国戸隠山をへて、道々数百人の部下をしたがえ、丹後国与謝郡大江山にたてこもりました。茨木童子は副将格として丹波国何鹿郡赤見ヶ嶽(現鬼ヶ城)に砦をかまえました。
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 日子坐王とは祟神天皇の弟にあたり、四道将軍として丹波に派遣された丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)の父にあたります。当地方最古の伝説として日子坐王の土蜘蛛退治物語があり、「丹後風土記残缺(たんごふどきざんけつ)」に収められています。
 それによると、祟神天皇の時、青葉山中に陸耳御笠(くがみみのみかさ)・匹女(ひきめ)を首領とする土蜘蛛がいて人民を苦しめたので、日子坐王が勅命を受けて討ったというもので、その戦いとかかわり、鳴生(成生)、爾保崎(匂ヶ崎)、志託(志高)、血原(千原)、楯原(蓼原)、川守(河守)などの地名縁起が語られています。
 このなかで、川守郷(福知山市大江町河守)にかかる記述が最も詳しいのですが、これによると青葉山から陸耳御笠らを追い落とした日子坐王は、陸耳御笠を追って蟻道郷(福知山市大江町有路)の血原にきてここで匹女を殺しました。この戦いであたり一面が血の原となったのでここを血原と呼ぶようになったといわれています。陸耳御笠は降伏しようとしましたが、日本得玉命(やまとえたまのみこと)が下流からやってきましたので、陸耳御笠は急に川をこえて逃げました。そこで日子坐王の軍勢は楯をならべ川を守りました。これが楯原、川守の地名の起こりです。陸耳御笠は由良川を下流へ敗走し、日子坐王はこのとき一艘の舟が川を下ってきたので、日子坐王はこの船に乗り陸耳御笠を追い、由良港へきましたがここで見失ってしまいます。そこで石を拾って占ったところ、陸耳御笠は、与謝の大山(大江山)へ逃げ込んだことがわかりました。そこを石占といい、この舟は楯原に祀りました。これが船戸神であるという内容です。


陸耳御笠が逃げ込んだ大江山(福知山市大江町より)

「丹後風土記残缺」とは、奈良時代に国別に編纂された他誌である「丹後風土記」の一部が、京都北白川家に伝わっていたものを15世紀に僧智海が筆写したものといわれています。

 用明天皇の時、河守荘三上ヶ嶽(現在の大江山)に英胡(えいこ)・軽足(かるあし)・土熊(つちぐま)という三鬼を首領とする悪鬼が集まり庶民を苦しめていました。天皇は、用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟にあたる「麻呂子親王」に征伐を命じます。
 命をうけた親王は、七仏薬師の法を修め、兵をひきいて征伐に向かいました。その途中、篠村のあたりで商人が死んだ馬を土中に埋めようとしているのを見て、親王が「この征伐利あらば馬必ず蘇るべし」と誓いをたて祈ると、たちまちこの馬は地中でいななき蘇りました。掘り出してみると俊足の竜馬でした(ここを名づけて馬堀といいます)。親王はこの馬に乗り、生野の里を通り過ぎようとしたとき、老翁があらわれ、白い犬を献上しました。この犬は頭に明鏡をつけていました。親王はこの犬を道案内として雲原村に至り、ここで自ら薬師像七躰を彫刻しました。この地を仏谷といいます。そして親王は鬼賊を征伐することができればこの国に七寺を建立し、この七仏を安置すると祈誓しました。
 それから河守荘三上ヶ嶽の鬼の岩窟にたどりつき、首尾よく英胡・軽足の二鬼を討ちとりましたが、土熊を見失ってしまいました。そこで、さきの鏡で照らしたところ、土熊の姿がその鏡にうつり、これも退治することができました。末世の証にと土熊を岩窟に封じこめました。(土熊は逃れて竹野郡に至り、ここで討たれたという説もあります)
 鬼退治を終えた親王は、神徳の加護に感謝して天照大神の神殿を営み、そのかたわらに親王の宮殿を造営しました。鏡は三上ヶ嶽の麓に納めて犬鏡大明神と号しました。(かつて大虫神社の境内にあったといわれています)
 また、仏徳の加護に報いるため、宿願のとおり丹後国に七か寺を造立し七仏薬師を安置しました。この七か寺については、享保二年(1717)の「多裲寺縁起」によれば、加悦荘施薬寺・河守荘清園寺・竹野郡元興寺・竹野郡神宮寺・構谷荘等楽寺・宿野荘成願寺・白久荘多裲寺の諸寺とされますが、諸説のあるところです。
 この麻呂子親王伝説は酒呑童子伝説との類似性・混同が多いことから、酒呑童子伝説成立にかなりの影響を与えていると考えられています。


麻呂子親王が三鬼を退治する様子(紙本著色清園寺縁起より)
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